下着はまだ少し湿っているので、そのまま風呂場へと移動させた。
「無理やり転がり込んだのは悪かったとは思ってますよ」
口を尖らせ、制服のまま床に座る。
「誰か来る予定とかがあるんだったら出て行きますけど」
「誰かをこんなボロ部屋になんて呼ばないわよ」
言いながら鼻を鳴らす。
「使うのは、あの時みたいに誰かに悪戯する時くらい」
意味ありげにニヤリと口の端を釣り上げる相手を、美鶴は憮然と見返した。
美鶴はこの部屋で、ユンミと霞流にからかわれた。それは寒い冬の日で、座っているだけで足の指先がジンジンと痺れた。
そう、ここは、美鶴が霞流慎二に頭突きをした場所。ここ以外に頼れる場所なんて思いつかなかった。
瑠駆真が押し掛けてきた日、美鶴は一日中上の空だった。授業なんて手につくはずもなく、休み時間はもちろん、授業中もぼんやりと席で空を見上げていた。
これから瑠駆真と同じ屋根の下で過ごす? 冗談じゃない。
だが、だからといって、美鶴にはどうしようもない。締め出そうにも瑠駆真は合鍵で入ってくるだろう。
悪魔の鍵だ。こんなんだったら、瑠駆真から部屋なんて借りるんじゃなかった。
と、後悔したところで後の祭り。合鍵を取り上げようにも、きっと彼はそんな隙などは見せないだろうし、取り上げる権利など美鶴には無い。
ならば、こちらが出て行けば?
どこに?
美鶴には、頼れる友などいない。唯一親しい関係を築きつつあるツバサの家は良家だ。話によると、特に母親は典型的な上流階級人間のようなので、同じ唐渓の生徒とはいえ美鶴のような人間を家になど泊めてはくれないだろう。使用人もいるようだし、家庭教師に勉強を教えてもらっているようなので、ツバサの部屋にこっそり、というワケにもいかない。
ツバサ。
彼女の存在から、唐草ハウスという建物も思い浮かんだ。孤児やら事情のある子供を保護している施設らしい。
私も、事情を抱えている子供には、なれないだろうか?
だが、この案も却下に至った。唐草ハウスには里奈がいる。彼女と同じ屋根の下でなど、暮らせない。
昔だったら、そうでもなかったんだろうけど。
ツバサ絡みがダメとなると、そこで美鶴の交友関係はtheENDというコトになる。そもそも美鶴は高校に入学するまではこの地には縁もゆかりも無かったワケだし、学校では自ら好んで孤立していたワケだから、このような場合に頼れる存在などいるワケがない。
富丘、は、ダメだろうな。
美鶴が家を出て、聡や瑠駆真が真っ先に思いつくのは霞流の家だ。あの家は、霞流慎二だけの持ち物ではないだろうから、たとえば木崎や幸田にでも頼みこめば部屋の一つくらいは貸してはくれるかもしれないが、二人が美鶴を探しに来たときに、黙って匿ってくれるという保証は無い。それに、事情が慎二にバレれば、今度はどのような事をされるかわからない。
美鶴の恋心をバラしたのは霞流慎二本人だ。美鶴が瑠駆真や聡から逃げ回っているなどという事情が知れたら、今度は何をされるやら。
こんなんで霞流さんの心を射止めるなんてできるのかよっ!
叫びたくなる気持ちが湧きあがる。
だいたい、霞流さんに会えなくなって何日になる? ツバサの兄の件以来、ずっと会えていなかった。数日前に駅舎で久しぶりには会えたが、最悪だった。聡に抱きつかれている現場を目撃された揚句、バラしたのは俺だなどと言われて辛辣に嗤われた。
そう言えば、あの時、実際にバラしたのは女だと言っていた。あ、それに、瑠駆真も変な事を言ってたな。
バラしたのは金本緩じゃないかって。
どういう事だろう?
混乱しそうになる頭を押さえる。
そんな事より、今は瑠駆真の件をなんとかしないと。このままだと、今夜は瑠駆真と二人っきり。
「大好きだよ、美鶴」
甘く蕩けるような囁きに、赤面しそうになる。
やめてくれ、今は授業中なのに。
一番後ろの窓際。どうしてだか、新学期初日から美鶴の席はそこに決まっていた。目障りな生徒は隅に追いやるべきだという事か。お陰で他の生徒の視線はほとんど感じない。それに、さすがに三年ともなると授業に対する身の入れ方が変わるのか、携帯などを弄る生徒も減った。いないワケではないが、なんとなく緊張感が違うような気がする。
授業は淡々と過ぎてゆく。もっとも、本来高校三年間で学ばなければならない内容はすべて二年生までの授業に組み込まれている。三年生は、ただひたすら受験のための授業だ。本番さながらの模擬試験を繰り返し、苦手を克服する為の毎日。卒業するための最低限度の出席日数を確保するためだけに登校し、あとは自宅で家庭教師に頼るといった生徒も少なくない。海外の大学を目指すとかで、新学期早々から留学してしまっている生徒もいる。三年の教室は穴あきだ。
家庭教師に留学、ねぇ。
美鶴にはまるで遠い別世界。
遠い世界。
瞬きする。
遠い、どこにあるかもわからない、ラテフィルという中東の小国。
瑠駆真がそんなトコロの王子様だかなんだかという話。今でも、今でも冗談なのではないかと思ってしまう。
校内に知れ渡った当初は周囲も騒然としたが、彼はその後、結局は他の生徒と同じように学校に通っている。学校側が何かしらの策を講じた可能性もあるが、生徒たちにしてみれば、あまりにスケールの大きな内容であったがゆえに、どのように騒ぎ立てればよいのか見当もつかないといったところなのかもしれない。手軽に噂するには手に余る話題といったところなのだろうか。美鶴の恋の噂話あたりが妥当な内容なのかもしれない。
そんな人に好きだなんて言われている私って、やっぱり傍から見たら幸せ者なんだろうか? 瑠駆真みたいな人間に好かれたら、誰だって嫌な気はしないんだろうし、柘榴石って集団も、諦めてはいないみたいだし。あ、そういえば、聡の義妹も瑠駆真の事が好きだったんだな。
聡の義妹。
そういえば、彼女は瑠駆真の事が好きだったんだ。それで、瑠駆真は、私と霞流さんの事をバラしたのは彼女なんじゃないか、なんて言ってて。
指を唇に当てる。
どういう事?
私が瑠駆真に想われているのが癪でこんな嫌がらせを?
いや、でもこの件は、黒幕は霞流さんだ。なんたって、本人が自分で言ったんだから。
霞流さん。
唇に当てていた指が額に移る。
逢いたいな。
別に好きだとかって言ってくれなくても、優しくしてもらえなくてもいいから、せめて逢うくらいはできないだろうか?
数日前に最悪なご対面をしたばかりだというのに、それでもやっぱり逢いたいと思ってしまう。
若葉が零れる庭を眺めながら髪を切ってもらった時の、辺りに漂うあの暖かさ。
水音を聞きながら川縁を歩いた時の、項を撫でた風の心地よさ。
霞流との甘い思い出がまやかしであった事はわかっている。あれは幻想だ。霞流が自分をからかっていたにすぎない。
わかっている。頭では理解している。でも、自分は霞流が好きだ。逢いたいと思う。
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